多様性

協力隊に参加中は、籍は総務課に置いていただいていた(休職しての参加)。
協力隊は任国に派遣前に2か月とちょっと、合宿形式で事前国内訓練というものを受ける。僕は年度の1次隊だったので、4月中旬くらいから駒ケ根のJICAの研修所に入る予定だった。ので確か4月1日だけ出勤してその後事前国内訓練に入るまでは年休処理にしていただき、研修所入所日に自己啓発等休業を開始する、という段取りで人事の方に服務を組んでいただいた(と記憶している)。
※ちなみに帰国日は3月下旬で、3月末までは休業期間、4月1日から復職というスケジュール。1週間ないくらいの間に健康診断、帰国後研修、携帯電話復活、住民票戻すetcの諸々の処理などを行い、現職隊員の帰国してから復職までの期間はせわしない。あと僕は南国隊員で、日焼け止めもなにも塗らない生活だったので、帰国してしばらくはお前どんだけ黒いんだと同期などによく突っ込まれていた(のを記憶している)。

で4月1日だけ出勤して、といっても仕事なんてほぼせず、挨拶やら服務上の事務処理などをしただけ。総務課付になる職員は毎年誰かしらいて、僕みたいな自己啓発等休業は相当レアだと思うが(少なくとも自分は聞いたことがない)、よくあるケースは他の団体への派遣組や大学院派遣組などが総務課付になる。
年度初めなので、どこの課でも異動してきた職員が課内で紹介される時間が設けられる。〜課から異動されてきた〜さんです、て感じで紹介されていき、拍手でぱちぱち、というのが人数分続いて、人数が多いので最後に異動してきた人の中で一番職位が上の方が代表して挨拶って感じだった(たぶん)。

僕も他の団体派遣、大学院派遣の方と一緒に紹介されたのだが、何せ僕の場合は自己啓発等休業って何?なんで途上国に派遣されるの?てかどこその国、アフリカ?何してくるの井戸でも掘ってくんの?、と?マーク続出の職員だったはずなので(課内ではある程度事情は共有されていたのかもしれないけど)、わけのわからないままその挨拶の時間が終わるよりかは、せめてもの誠意として、簡単に休職の経緯(青年海外協力隊制度を利用して、とかその派遣国に決まったいきさつ、とか)をその挨拶の場で説明したくて、司会の方にその場で手を挙げてお願いして、本当に簡単にそのあたりを皆さんの前で説明させていただいた。

そう、それを説明するのを僕は誠意だと思っていた。でも、自治体職員が休職して協力隊参加することの是非はここでは別にして(制度としては休職を許す制度はあるがそれを組織が歓迎するかどうかの話は別にして)、例えイレギュラーなケースをみなさんに説明したいという動機であっても、そういう場で事前の段取りを遮って自分の時間を平職員が設けちゃうというのはTPOへの配慮、理解がなかったことであったことを、当時総務課にいた既知の職員からの指摘を受け初めて自覚した(指摘と言っても「あれよくないよ〜」的なニュアンス)。


都道府県職員というと県庁所在地にある庁舎で働いているイメージも強いかもしれないけど、実際は県内に多くある地域機関で勤務する職員も多い。入庁以来一度も本庁で勤務したことがなく地域機関だけの勤務でキャリアを終える人もいるくらいだ。僕のいる部局だと新卒で入庁して異動2か所目or3か所目で本庁というパターンが多く、最初は地域機関と本庁の違いに多かれ少なかれ戸惑う職員も多いと思われる。

自分も御多分に漏れずで、本庁で初めて働いたのは入庁してからだいぶ経ってからだった。決裁ラインが比較的短い地域機関に比べて(一般的に地域機関は平職員と所属長との距離が近い)本庁は決裁ラインが長い、つまり何かを決めるのに許可を得なくてはいけない人がとても多く、意思決定のプロセスがとても強固に、厳密に定められている。
自分が若かりし時?自主勉強会なんてのをやっていたのもそういう縦のラインを意識しにくい、あまり意識しなくていい部署に最初いたからだろうなと今は思うことがある。自主勉強会グループをつくって組織の公認グループにしていただいていたことがあったのだけど、公認してもらう過程で一人メンバーが登録から抜けてしまったことがあった。これは僕にとって少々のトラウマで、なぜかというと、公認のグループにする過程で各登録メンバーの所属長宛に文書で連絡が行き、あなたの所属の〜さんはこういうグループをつくってそのメンバーですよという連絡が行き、それを受けて登録から外れたいという経緯だったからだ。そのメンバーには今でも申し訳ないと思っている。勉強会なんてのをわざわざやって人に迷惑をかけてしまうようであれば本当に意味がないことをやっているに等しい。

もちろん組織に反抗的なやばい何かをやっていたわけではないのだけど、役所みたいな組織が持つ風土の中で、自発的に何かに取り組んでいるグループというのが手放しで賛同されるよりかは、え、なんで仕事以外でそれやってるの、という視線で見られることが多いのは確かだ。グループでやっていること、やってきたことを丁寧に説明して、たくさんの庁内の先輩ゲストに勉強会に来ていただいたことからわかるように、若手がそういうことをやっているのに理解してくれる人が中に多いのも確かなんだけど、少なくともそういうface to faceの説明なしに、勤務時間外でやっている自主的な活動に対して一般的な理解を得るのはあまり簡単なことではない。それがいい悪いじゃなくて、単にそういうカルチャーがあるというだけ。


話は戻って年度当初の挨拶の話。そう、少なくとも僕は本庁カルチャーにどっぷりつかるまでは、今と比べると自由な発想で自由に体が動いていて、だからこそ自分が説明したいと思うことをその場のTPOにもそぐわない形でずかすか発言してしまった。たぶん今同じシチュエーションに自分が立ったら同じことはやらない。いやできない。これもいい悪いじゃなくて、朱に交われば、というやつだ。

たぶん今の組織しか知らない自分であったのであれば、このカルチャーに対しては懐疑的な見方しかできなかっただろうと思う。比較対象として、協力隊のときの話を出したい。
任国各地に散らばる隊員が一堂に集まる機会が定期的にあって、そこでミーティングやら健康診断やらが行われる。ミーティングでは何かしらの意思決定が行われることもあるのだけど、隊員同士特に立場に序列があるわけではもちろんなく、そうするとやはり意思決定のスピードとか質が少なくとも自分から見るとあまりクオリティ高くないことが多いと思っていた。個性が強いあくの強い隊員同士がぎゃーぎゃー言い合いまとまらないみたいな笑 
そういうとき、やっぱり長年にわたる周りの人の評価があってそれを受けて上の立場に立っている人がしかるべき意思決定をして物事が決まっていくというのは組織が安定して高いクオリティで物事を進めていくのに大事なんだなぁとよく思っていた。隊員は自己主張の強い人間の集まりだから(好意的な意味だ笑)、議論がまとまらず紛糾したりするのを見て、あぁやっぱり自分がいた組織のは自分が考えていた柔軟性のない意思決定システムではなくて、それどころかとても優れたシステムなのかもとか思っていた記憶がある。好き勝手言う=活発な意見交換があるのはとても大事なことだとは思うんだけど、何かが決まって物事が円滑に進まなければ本末転倒だ。

組織に属するのは時に窮屈で、時に合理的で、時に没個性的で、時にスマートなんだと思う。

組織には多様性が必須だと心底思っていて、それだけに今自分が属する組織の単一性だとか多様性への耐性のなさにはどうなのかと思うこともままある。だからこそ外の世界を知る人は大事なんじゃないかと思う、というのがなんとなく言いたかったというお話。今中にいる人が外に出るためには、まず空気を読まずに組織のカルチャーを遮る形で手を挙げて、自分の強烈な意思表示をする必要があるけれども。

長時間労働をつくるもの

教員の多忙化、長時間労働の話が話題だ(話題だというには少しタイミング遅れているとは思うが)。小中学校にスクールサポートスタッフを入れて事務仕事の一部を負担させる、タイムカードを導入して勤務時間の管理徹底を図るなどの施策が提言されている。どれも国が一律に導入する施策としては自分には文句のつけようがないものだけど、現場にいる実感としては、こういうトップダウンの施策と共にボトムアップからの改善がないと、現実には劇的に事態は解決しないものだと考える。

行政にはマネジメントの概念が欠如しているのではという話は何度かあげてきたと思うが、まちづくり分野で著名な木下氏がこの問題に関しツイートしていた内容が本質を突いているのではと僕は思っている。
https://twitter.com/shoutengai/status/900621011082649604

僕はトップダウンの施策を批判するものでは決してないけど、ボトムアップからの根本的なところの生産性の改善を試みない限りには事態はあまり改善しないのではとは強く思う。

教育職の先生方が事務仕事に追われるというのは本末転倒で、子どもと向き合う時間こそ確保すべきという論点に疑いはないと思うが、次のような点に自分は疑問が残る。

(1)必要のない事務仕事があるのでは?
→国や教育委員会から学校現場に依頼される調査仕事などに本来必要のないものが混じっているのでは?

(2)仕事のお願いの仕方に問題があるのでは?
→学校現場に依頼される調査仕事などで、もっと依頼の仕方ややり方を変えれば効率的にできる仕事があるのでは?

(3)事務仕事のやり方自体に問題があるのでは?
→学校現場で行われている事務仕事はもっと効率よくやれるのでは?

たぶんこれらを解決するには一律的なトップダウン施策だけでは難しいし、1つ1つの仕事を精査し要らないものはなくし、効率性の悪いものについてはやり方を見直すという作業が個々の業務ごとに必要だと思う。それには各校の校長のマネジメント、リーダーシップも必要だろうし、学校現場〜市町村〜都道府県のラインで情報共有をより進めて効率化を1つ1つ進めていく作業も必要だろう。つまり学校という組織内のマネジメント改善や、関連する組織間での連携強化という論点にこそ根本的な原因があるのであって、その解決なくして教員の多忙化問題が解決するとはあまり思えないのだ。

行政側にいる人間の1人として、これはかなり自分事として考えていて、これはやはり学校現場がどうこうとかじゃなくて仕組みを作る側の問題だ。もちろん自分の言っているようなことは国も重々承知で、国の政策として、学校のマネジメント改革も学校と教育委員会の連携の話も、理屈ではおそらく全て問題点も洗い出されていて解決策も理屈としては綺麗に明示されていると思う。ただボトムアップの視点で見ると、問題を解決するのは先生方教育職と行政職の信頼関係に基づいたあるべき業務分担とかであって、これはどこまで言っても人対人の問題であって、個々人の問題になっていくと思う。

仕事を誰かにお願いする際に、自分の業務負担だけではなくお願いされる側の業務負担も考慮するのは時に大変で手間がかかる。それでも、長時間労働の問題の本質は(教員だけの話じゃないけど)、相手の立場の配慮を欠いた仕事の投げ方の積み重ねだと考える。その小さな積み重ねが1人1人の労働時間を延ばすし、全体としての効率性を下げる。なんでこれはとても総合的なマネジメントの話だと思うんだけど、とりあえず末端の職員としては、1つ1つの仕事を、相手の立場に寄り添い丹念に組んでいくことの積み重ねしかないのだと思う。

前後のストーリーを紡ぐ

協力隊について、今までいくつか記事を書いてきた。久しぶりにざっと読み返してみて、

・協力隊には色んな職種があって色んな人がいて面白い。多芸、多才な人たちの中に身を置くと楽しいし刺激になる(別に行政だけの話ではないだろうけど、社会に出て1つの組織に属しているとどうしても同じような人間ばっかり集まって世界観がとても狭くなる。そんな中協力隊のようなある意味尖った人たちの中に身を置くのは刺激になる)。

・現象参加をするのであれば、無給休職より有給の派遣で行くのがよい(できれば)。協力隊参加をゴールにしてはいけない。あくまで任期後のことも見据えた参加であるべき。

・現職で参加したい人は、参加のタイミングもできるだけ考えよう。当然組織側の都合もある。

・協力隊は次のステージのためのステップだと割り切るという考え方はありじゃないか?

・協力隊で得られる経験と、行政のようなドメスティックな業界で求められる能力は、時に矛盾する。

というようなことを書いてきたと思う。
私自身、復職して数年働いてみて思うのが、やっぱり佐賀県庁の方のこの文章は本質を突いているんだろうな、という改めての実感だ。
https://www.jica.go.jp/kyushu/story/ku57pq00000f9ww5.html

行政で一番大事で、一番求められるのが多いのもいわゆる守りの仕事だ。協力隊の経験は概して攻めの経験で、時に行政の仕事とすごく矛盾する。ベースにあるのは守りの能力であるべきで、逆ではない。守りの上に攻めの能力があるのであれば、攻めの要素が求められる部署であれば貴重な戦力になり得るだろう。ただそれもベースとしての守りのスキルがあるのが前提で、ベースがなければいくら攻めの要素が求められる部署であっても行政職員としてきちんとした戦力になるかは微妙だと思う。そんなことを、上で紹介した記事はよく表現されていると思うのだ。

現象参加の点でいえば、極めてドメドメな風土を持つ地方自治体という組織にあって、海外経験を積んで帰ってくることで逆に適応力を失ってしまうこともあるかもしれない。井の中の蛙は、井の中にいたほうが幸せだったということはありうるし、実際日本社会でずっと生きていくつもりであればそれは正しい選択肢だとも思う。新卒で協力隊に参加して、そのままほとんど海外にいるような人を見ていると、おそらくこの人はドメドメな日本社会で生きていくのはもう難しいだろうなと思うときがある。別に悪い意味じゃなくて、それくらい日本社会には特殊なところがあるということで、そこに馴染んで生きていくにはドメスティックな価値観のままずっと生きていた方がたぶん楽だし賢い。

でもシンプルな結論は、協力隊には、

・行きたければ行けばいい
・(できれば)協力隊の前後に自分なりのストーリーを紡き、ストーリーを繋いでいこう

別に参加の動機はなんだっていいと思うけど、前後のストーリーがしっかりしている協力隊参加は美しいと思うし、逆のパターンはそうでないと思うのだ。自分のことは置いといて、だが。

仕事の先

行政という仕事はある意味殿様商売で、庁外の誰かに媚びたり、庁外の誰かになんとか仕事をお願いすることで自分の仕事が成立するという場面が少ない。もちろん納税をお願いしたり区画整理などで立ち退きをお願いしたりとそういう類の仕事は存在する。公益のためという大義名分があってお願いする仕事とはいえど、これは行政の中でも大変な仕事だと思う。しかしたぶん現場を離れれば離れるほど、組織の中の人間の顔色だけ伺っておけば成立する仕事も多く、そういう仕事は時に行政サービスの提供先である市民の利益、立場を見失いがちなことが少なくないように思う。

単独で成立する仕事なんか世の中にはなくて、全ての仕事は持ちつ持たれつだ。誰かの仕事は誰かに支えられて成立しているわけで、それはもちろん行政もそうで、というかそもそも皆様の税金で食べさせていただいているわけなんだけど、それを自覚する機会が少なく、そこに感謝をして仕事をする、そういう態度で仕事に向き合う機会が、少なくとも自分の今までのキャリアの中では少なかった。

民間企業で働く友人らと話すとき、相手の立場を敬い、尊重し、楽しませる姿勢がしみ込んでいるように感じることがよくある。仕事で成功している人であればあるほどその傾向があるように思う。もちろん業界にもよってお客様との接し方も多種多様なんだろうけど、誰かに喜んでもらうことで自分の仕事が回っていることを多分肌感覚で理解しているからなんだろうなとよく思う。
残念ながら、偏見かもしれないけど、この感覚を公務員の人から感じることが少ない。これは公務員になる人がそういう人たちとかではもちろん決してなく、環境としての公務員の職場が、誰かに心から感謝をしていくことで仕事がうまくいくようなものになっていないことに起因する気がしている。そう、前提となる職場の条件として、誰かの声をできるだけ広く聞き、それを取り入れ、それにできるだけ応えようとし、その誰かを喜ばせようと全力を尽くす、そんな当たり前のことが、時にこの業界では難しい。公益のために誰かの権利を制限する権力が与えられているのが行政。行政はお客を選べないし、それでいて全ての人のニーズを叶えられるわけではない。公共政策は、詰まるところ、いつだって利害の調整で、限られたリソースで、誰かの社会的なニーズを後回しにし、優先して取り組む社会的課題を決める。予算が有限である以上、政策の取捨選択は、誰かを救い誰かを見捨てる、その繰り返しでしかない。

今の市民と行政の関係って、なんだか極端なクレーマーのことを行政が極端に恐れ、一番声を聞くべき相手に自分からシャッターを閉めている状態じゃないかな、と感じる。仕事は全て繋がっているのだから、できるだけ繋がっている先の声を取り入れた方がいいのだけど、何か変なこと言われて自分たちの仕事が増えたらどうしよう→であればできるだけドアを閉めて極力自分たちの身を守ろう、みたいな循環がある。オープンじゃないからこそ大多数の良識的な人たちはどう声を届けたらいいかわからなく、結果として目立つのはほんのごく一部の極端なクレーマーの声となり、ますます行政の中の人間は中に閉じこもるようになり...という循環。

別に自分だって自分で自分の仕事を増やしたいとは思わないし、窓口や電話口でわけのわからない理屈で怒鳴られたりするのもいやだ。市民のストレス解消のために怒鳴られることで自分が社会に提供できる価値より、世の中にきちんと価値を提供できる施策を練りその仕組みを回すことで社会に提供できる価値のほうが高いと信じたい。閉じこもれば閉じこもるほど意味ややりがいのない仕事、つまりサービスの提供先である市民の方をちゃんと見れていない仕事は増えていくし(誰のためにやるのかが明確でない仕事は意味もないし当然やりがいもない)、意味のない仕事とわかっていてそこに目を閉じ淡々と片づけるような仕事のやり方は苦痛だ。苦痛だからこそ大多数の職員は年数を重ねるにつれ意味のないという事実を認識しないようにする。次第にそこに意味があるないを考えようとする自分があったことも忘れてしまう。行きつく先に完成するのがお役所仕事と揶揄されるそれなのかもしれない。

どんなご意見であれ、外部の人からいただいたお電話や窓口などでのご意見に対し、自然と「貴重なご意見ありがとうございました」と口に出る。長年同じ業界で過ごしているとどこかで染まり切っていないか心配になることもあるが、その言葉が自然に出て、その自分の口から出した言葉に疑いがない気持ちが残っていれば、まだ大丈夫だなと思ったりする。自分からドアを閉めた時点で、たぶんその時点から、サービスの提供先をどこかで忘れてしまっている、やりがいのないつまらないお役所仕事しか、その人の前には待っていない気がするからだ。

民間から公務員という道

僕の採用年度は同期に比較的民間企業経験者枠の方が多かったようで、今でも交流がある同期も数人いる。そういう同期の活躍の仕方を見ていてうらやましいなと思うのが、ジェネラリストであることが基本である行政職という仕事の中で、前職の民間企業時代に培った経験をベースに公務員としてのキャリアを積み上げている方が多いように見受けられる点だ。

新卒ではなくて民間企業勤務経験がある人を採用する理由は正にそれで、行政の内部では育成が難しい能力を、採用という形で手に入れてしまおうという話なのだから、ある意味当然のことを言っているだけといえばそれまでだ。
そこをなぜうらやましいかというと、彼ら彼女らが「初めから」色が付いている点にある。自分のような新卒採用だと、入庁から色々な部署を回され適性を見られ、徐々に色が付いていき、この人はあの行政分野、あの人はこの分野、という風にその人が籍みたいなものを置く部署が定められてくる。その籍みたいなものがある程度定まってしまったら基本はそこを中心に数年ごとの異動は決まっていくだろうから、もし自分が関わりたい行政分野があるのであれば、ある程度意識して自分の色を付けていく必要がある。もちろん人事は必ずしも自分の思うとおりに行くわけでないし、基本新卒採用のスタートは同じところからよーいどんなので(採用時の合格順位などの前提条件はあるが)、資格取得はじめ様々なアピールをもって自分を周りと差別化し(公務員の中で差別化ってなんだよと自分で言ってて違和感もあるが)、自分の人事を決める人事課や、自分の直接の評価をする上司などに伝えていく必要がある。一方、民間企業経験者は、採用時点で既に前職の経験で十分差別化できている。そこが、うらやましいというわけだ。

うらやましいという感情の原点には、自分自身が強みとする何の行政分野も持たず、ただ庶務的な業務をずっと回されてキャリアが終わるんじゃないかという不安があって、この分野ならこの人と言われる人はうらやましいという感情がある。結局行政の中の経験だけで、民間企業で中身の濃い経験をしてきた方々のような自分の差別化、色付けをするのはとても難しいと感じていて、そこに彼ら彼女らへのうらやましさ、羨望、尊敬みたいな感情がある。

学生時代、公共政策のゼミに所属していて、公務員になって世の中をよくする仕組み(政策)をつくりたい、なんて青臭い理想を持っていて、それなりに早い段階で公務員という進路は意識していて。そんな学生時代、自分が就職を考える際、新卒で公務員でいいのか?とちょっとだけ考えたことがある。青臭いようで、まっとうなようで、素直な疑問だったように思うが、新卒で公務員で一生公務員って人として常識なさすぎ、何か特定のスキルつかなさすぎなんじゃないかというような考えだった。上に書いたこととも照らし合わせて、それはそれで間違えていなかったとも思うけど、一方で公務員試験に合格するというゴールそのもので考えると、新卒枠のほうが競争率は低く、対して民間企業経験者枠というのはかなり競争率が高い。実際にそこを潜り抜けてきた方たちは名だたる有名企業出身者ばかりだ。たぶん自分が新卒でどこか入れる企業に就職したとして、そこから民間企業経験者枠で受験したとすると自分のスペック的にまず受かる競争率ではなくて、その意味で、公務員試験に合格するという意味では新卒枠で受験して正解だった。ゼミの指導教授が自分のそんな疑問をふとお話ししたときに、その話をされていたのを(入るのは新卒採用のほうが楽だよという趣旨)、あぁ教授がおっしゃっていたのはこのことかと今思う。平たく言えば、お前のスペック的にまず新卒枠じゃないと公務員はなれないだろうから、もし公務員なりたいならばかなこと言ってないで今受けとけよという意味だったのだろう笑 とてもお世話になったし、非常に人を見る目がある方だった。

名だたる企業で中身の濃い経験をしてきた人たちだから、当然受け取っていた報酬も高い。となると当然公務員になると受け取る給与はがくっと下がるわけで、それはある程度覚悟の上で公務員の世界に入ってくる。その動機は様々だろうけど、転勤が自治体内に限るとか、家族との時間とか、ワークライフバランスとか、その辺が占める割合は低くはないだろう。その辺を手に入れつつ、今までのキャリア、経験が組織に求められ、それを生かして活躍できるとすると、年収は落ちるにしても、民間ほどの仕事のダイナミズムはないにしても、それでも行政職員のキャリアとしては相対的にいい感じになるはずで、そのあたりがうらやましい。

強いて言うならば、たぶん行政の中で上り詰める人は新卒採用で行政純粋培養の人になることが多いことはたぶんある。これは民間行政問わず、保守的な業界、大きく古い組織、であれば珍しいことではないように思うけど、何か特定の分野に秀でているスペシャリストであることと、組織の中で花形とされる部署の在籍履歴がありつつ組織の色んな部署を幅広く回り組織自体について詳しいということは、両立しえないものでは決してないだろうけど、それでも少なくとも今は、生え抜きの人が上に上り詰めやすい構造は残っているように感じる。これからは違うのかもしれないけど。

ブ〇ータス、お前もか

仕事の中で、これ改善の余地あるな、長い間放置されてきたんだなという課題を見つける度こう思う。あぁお前もか、と。

「お前」は自分以外の誰かではなくて、自分自身のことで。

最初にその課題を見つけたとき鮮烈に抱いた違和感は、いつしか周りと合わせるうちに風化していって、いつしかそれが違和感どころか普通になっていく。それでも職場には定期的に人事異動があるから、新しく入ってきた人と話していると、ふとそのことに気付けることがある。つまり、昔抱いた違和感がとうになくなっていることに気づき、すなわち自分自身が改善の余地があることに目を背け、自分自身が課題を放置していることに気づく。その瞬間はとても恥ずかしく、情けないものだ。

おそらく年数が経てば経つほどその「気づき」の機会は少なくなっていって、いや機会の数自体は変わらないのだろうけどそれを自分で気づきと見なせる感覚はなくなっていって、次第に自分を取り巻く全てが「普通」になっていって、課題が何かすらよくわからなくなる。それが組織に長くいるということで、組織に順応していくということだと思う。

これは変えられない、これはやめられない、これはこういう理屈だからしょうがない、そんな「お前」がどんどん増えていき、自分に同化していって、膨張していっている感覚がある。自分と「お前」がくっついていくたびに、「普通」の感覚がどんどん広がっていき、そのたび、本当の優先順位がどこにあるかを自分で考える感覚が薄れていく自覚がある。

結論は自分のぽんこつな仕事の生産性を高めていくしかなくて、その生産性でもって「既存」の仕事を完全にマスターした上で、完璧に回した上で、+αの時間と労力を使って、感じた「お前」を一度受け止め、同化されないうちに改善し、投げ返すしかない。

自分で書いてて何書いてるのかよくわからないが、備忘録として。
...要は格言っぽいものと繋げて何か書きたいだけだった説もある。

ブザーをおす人おさない人

僕は通勤は普段は自転車で、雨の日はバスを使うことにしているのだが、もう今はなんか慣れてしまったのだけど、当初バスを乗るときに少しげんなりしていたのが職場の前のバス停で誰もとまるブザーを押さないことだった。別にこれってよくあることで、自分が押そうとして腕を上げた瞬間誰かがブーってボタンを押してしまって、あげてしまった自分の腕のやりどころがなくちょっと恥ずかしいって普通のことで、自分が下りるバス停であっても他にもある程度降りる人数が見込まれるバス停であれば誰かが押すのをじっと待つって結構普通だ。

なのになぜげんなりするかというと、そのバス停が自分の職場であり、一緒に降りる人たちの多くは同様に自分の職場に通う人たちだからだ。だいたい、いつも同じ時間にいる人がボタンを押すことはまずないようで(たぶん)、誰かが押してくれるだろう我慢大会がだいたい始まる。僕は、自分がちょっと恥かくことと、そのとても他力本願な空気に耐えることを比べると、後者のほうがつらいという価値観が強いので、だいたい自分で押してしまう。

この、「きっと誰か他の人が押すだろう」という無言の空気が、うちの職場全体の「きっと自分以外の誰かがなんとかしてくれるだろう」という空気となんだかイメージが重なってしまい、ちょっとげんなりというわけだ。しょうもない例だけど、事実のほんの少しは反映している例だと思っている。結局、職場の現実にどう対処するかという話と一緒で、げんなりする前に自分でボタンを押してしまえというだけなのだけど。

徐々に沈みゆく船の中にいるんだなぁということはなんとなく思っていて、だからこうやって悪い見方をしてしまうこともあるけれど、船の外にいるときは(協力隊に参加していたとき)、船の中の人たちのすごさを改めて認識することも多かった。実直な仕事への姿勢、正確性、忠実性など、他の国はもちろん他の業種にもなかなかないほどのレベルのそれがあるんだなと、外に出て初めてわかり、敬意の念を抱いたものだった。外に出て中を改めて見てみたという経験、視点は大事だし、結局隣の芝生は...要素はどこにいても強いものだと思う。

中の世界しか知らず、そこで満足している人が僕は一番幸せだと思うけど(より他を、上を求めなくなるため。井の中の蛙は実は一番幸せなんだと思っている)、外の世界を知って、その上で中を選んで生きるというオプションは今の日本ではまだそう簡単ではないから(仕事を変えることについてまだハードルが高い)、僕みたいな一度外に出て中に戻るという経験をしていることは非常に恵まれているのだと思う。その経験をさせてもらったことや、自分を取り巻く様々な世界の話を聞かせてくれる知人友人に改めて感謝しなくてはならないと思う。


毎度思うことでもあるんだけど、この業界で穏便に生きていくためには鈍感力が大事だなぁと思う。これおかしいなと思ったことがあってもまぁいいやとしておける力だ。これを持っていないと、入庁当時はおかしいなと思うことだらけだし、地位や能力もない段階で変に改革精神を燃やそうものなら周りに迷惑がられるだけで何の得もない。自分の得がないのはもちろんのこと、言ってしまえば組織の得も全くない。

4月で今の職場も3年目で、人が入れ替わったこともあり今でこそばたばたしているけど、たぶん落ち着いたら前例踏襲でなんとなく仕事を流してこなせるようになるだろう。余計な問題意識を持たずに、鈍感力を発揮してそうありたいものだと思うところはあるのだけど、一方で自分がやったこのくだらないプロセスを後任にもやらせるのか、というしょうもない問題意識がそれを許してくれそうにない。今のところ。去年通りにやりましたと言えばほぼ許されてしまうところがあるところに(そうはいってもポイントはある程度おさえる必要はあるが)、そこに挑んで改善を試みるのは本当にとても愚かな行為で、正直なんのメリットもない。

でも、そんな減点主義の世界であっても、自分でブザーを押そうと思い切ってあげた自分の腕を恥ずかしく思うより誰かが何かやってくれるのを待つ空気に耐える方がつらいという価値観が今のところ変えられないので、組織に迷惑をかけない程度で、なんとか自分の中でそこら辺の折り合いがつくポイントを探り探りやっていかねばなという感じだ。

とりあえず、手引きを見れば万事うまくいくであろうのに説明会を毎年なんとなく開いて時間や参加者の交通費(共に結構な大きさだ)を無駄にしている説明会をなくしたい笑(今の自分じゃできないけど)。