制度の組み替え

役所の仕事は大小様々な「制度(大きなもので法律や条例、それから規則、小さなものでいえばちょっとしたマニュアルまで)」に準じて仕事をしていくけど、今までの自分の仕事経験上、制度の中身そのものを見てイケてないと思ったことはほぼない。というのは、おそらく、制度をつくる役割を任せられるのはどんな組織であってもその中でデキル人なのだからだと思っている。事前に色んな想定を含めて各種制度はよく練られていて、これはとても自分にはできないだろうな、自分よりすごく頭がいい人がつくったんだろうなと感心しきりなケースがほとんどだ。

一方でその制度の「運用」状況を見てげんなりすることが多いのはなぜか?
制度がよくできていればいるほど、その決められたとおりにやっていれば当然事が順調に回る。皮肉にも、いい制度であればあるほどその仕組みは長く継続し、時間の経過とともにこれに従っておけば大丈夫という状態が続き、いつしか「前の人と同じようにやれば安心信仰」が蔓延する。(当初)よくできた制度にみな(いつまでも)従順がゆえに、いつしか誰もその制度が回る仕組みの本質を理解していない状態になってしまい、いつまで経っても生産的な制度の見直しがなされない。

「運用」にかけて、行政の人間のクオリティはものすごく高いと思っていて、制度のとおり、マニュアルのとおりという意識は非常に高く、従う決まりさえあればそのとおりに正確に事を進められる、運用できる職員は非常に多い。これは長所でもあり同時に短所でもあると思っている。何が短所かというと、時代の移り変わりとともに、当初制度が定められた設定とは状況は刻々と変わっていくものだけど、その状況に適した運用への転換ができていないというのがそれ。運用能力が高いがゆえに、皮肉にも、何年でも同じ運用は同じクオリティで継続ができるが一方で状況の変化に対応する柔軟な運用ができない。

最初に優れた制度を組める頭のいい職員もいる(僕は然らず)。大多数の人間は優秀で真面目でその制度の運用が誠実にできる(僕は不真面目なので然らず)。ただ、組織として適宜その制度を見直し組み替えていくことができない。そうがゆえに、いわゆる制度疲労が蔓延しているのが今の役所社会だと最近切に思い、正直(僕が勝手に)苦しい。

仮に、今が0の状態だったとして、制度をそこから組むのであれば、まず今の状況に即してよい制度が組めると思う。それができる頭の良い職員はいるし、その正確、順調な運用だって今の職員の優秀さ、真面目さであればまず間違いなくできる。ただ昔つくられた制度、仕組みが既にたくさんあるという前提があると、なぜかそれを今の状況に即して制度を「組み替える」ことができない。すごく端的に言ってしまうとこれが自分が思う行政の問題の1つの本質で、今ある様々なしがらみにからみとられ、本来行うべき問題解決アクションがシンプルにできない。これが自分がたぶん日本はとことん行くまで(財政破綻とかそれくらいの危機的な状況)本質的な改革はできないだろうなと思っている論拠で、役所の中で仕事をしながら時に絶望的な気持ちになる理由でもある。なぜかこの国は、全部壊れなければ、本質的な立て直しができない。

自分自身の卑近なケースで、なんでこれやるの?もっとシンプルに業務遂行可能じゃないの?と思う仕事について、決められた手順のとおり(辛抱がないので)できなくて、もっと手を抜いた業務フローにしようとして、楽しようとするなバカヤロー!...とは言われないが、あきれられたり怒られることがよくある。これは僕の場合なので自分が頭悪いだけなのだとも思うが、正直実感として、なんで財政が逼迫していて人口減が確実で医療介護負担も貧困も切実なのに、「決められた手順」をどんどんシンプルにして、その分浮いた時間や人員を本来回すべき社会課題にあてないのか、僕の悪い頭では本当に本当によくわからない。「今と違う状況で」「当時」決められた何かは、そんなに絶対なのだろうか?それを少し時間を置き、考え、改善し、適宜組み替えたら、もっと生産性の高い組織ができないだろうか?ひいてはその生産性に基づきもっと多くの社会課題を解決し、状況を改善できないだろうか?

まとまらないが、備忘録として。

これができたら

http://toyokeizai.net/articles/-/155234

「貧困化が進み、社会福祉の支出が膨らみ、国の借金も増える一方の中、生産性向上は、日本にとって喫緊の課題である」という話。元ゴールドマンサックスのアナリストで、今は創立300年余りの国宝・重要文化財の補修を手掛ける小西美術工藝社の社長を勤める筆者の文章は何度か読んだことがあるが、大半の日本人が「いや、そうはいっても」となんとなく放置している問題をものすごくロジカルに、気持ちいいくらいにシンプルに的確に指摘されている文章をいつもすごいなと思っている。正論をそのまま言うのは時に敵もつくるだろうに、生涯を全く困らずに過ごせる資産もとっくにお持ちだろうに、こうやって日本のために言うべきことを発信されている姿にもとても頭が下がる。

御紹介した文章は日本のサービス業についてで、もちろん役所の問題について直接語ったものではないのだけど、文章を読み進めるたびに、これは自分がふわふわ感じている問題意識、違和感を自分では表現できない精度、的確さで言い表しているんじゃないかなぁという気がして。

「日本は成熟国家などではなく、まだまだ伸びしろに溢れている」という話なんだけど、僕が仕事の面でこれができたら死んでもいいくらいに思っていることに、自分の知的レベルで認識できる仕事の無駄を自分のいる組織から根絶することというのがある。たぶん前例踏襲旧態依然文化の世の中最前線を行く地方自治体という組織がこれをできたのなら、世の中自体の生産性もずっと上がって、みんなもっとかなりハッピーな世界ができるのは間違いないと思っているからで。昔どこかで書いたような気がするけど、今自分が所属する組織の中で自分の知的レベルは随分下の方だと思っていて(実際に入庁試験の合格順位とかかなり低い笑)、それでいて組織の仕事には無駄を感じることが非常に多く。組織の中で随分賢くない方の自分が認識できるくらいの無駄なんだから、それが解決できない原因は「できない」からでなくて「やらない」からであることは決まっているわけで、そうすると今所属する組織もまた、まだまだ伸びしろに溢れているということになるまいか。僕は結構まじめにそう思っていて、だからこそこんなブログも書いている(はず)。

もちろん、これらの文化財や国立公園で働く日本人も、「まじめに働いている」のだと思います。私が申し上げたいのは、まじめに働いているかどうかよりも、今の需要に応えられていない部分、おカネにならない仕事を優先したり、おカネになる仕事をやらなかったりしている部分があるのではないかということです。

うちの組織も、みんな非常にまじめに働いているのは間違いないんだけれども、社会の需要に応えられていない部分を優先してしまっているところがあるのも自明だと思う。これは何度も書いているように、個人が悪いのではなくて組織のマネジメントがなっていないせいだと思っていて、組織や仕事のやり方がなんとなく旧態依然のままになっているということに尽きる。これ意味なくね?行政サービスの需要の先のこと本質的には考えられてなくね?と誰もが思っていてそれでもなんとなく生き残っている規則などで、それになんとなく従って組織が回っているがゆえに生産性が失われているケースなんて掘ればどれだけ出てくるのか。

人口ボーナスがあって経済が順調に成長している昭和のころなら、それでもよかったのかもしれません。しかし、社会福祉や貧困の問題が大きくなり続けている現状を考えれば、すでに悠々自適な仕事をしていられる時代ではないと思います。

これもまさにそのとおりだと思っていて、財政は年々逼迫しているのにそれでも中の人は危機感が薄く(自分含め)、徐々に沈みゆく何かをなぜかみなが不思議と楽観視しているのはなんだかとても日本的なところを感じるところだ。中にいる個々人はとても優秀でとてもまじめに仕事をこなしているのにもかかわらず沈み続けている何かの中で、なぜか組織が回る仕組みそのものにはほとんど手をつけられないという日本人的なところ。所与の決まり、仕組みがあってそれに基づきまじめに頑張る点については非常に優れていても、組織のあり方や仕事のやり方、人材などに大きな変更を加え、仕組み自体を時代に即した形にすることには劣っている。たぶん昔から言い古されている日本人の特性なんだけど、昔から大きく変わっていないことも確かだろう。


僕は、何が問題かはみんなが認識できている、にも関わらず現状はそのままずるずる行っているという認識でいる。それに自分の立ち位置(組織の末端中の末端)からして、僕自身がここで上にご紹介した記事と同じことを大所高所から訴えることに意味は全くもって感じられないし、正直な話、2011年の地震クラスの事が起きて、組織の在り方、仕事のやり方がほとんど変わっていないことから、個人的にはとことん行くまで(財政破綻とか)組織は根本的には変われないのだろうなという気がしている。

持ち場で頑張る。その一言に尽きるんだけど、結局、どこかで聞いたセオリーみたいに、個々が自分の利益だけを優先して動く(=前例踏襲でなんとなく生きる)と全体としては損をする(=給与は上がらないし仕事は増えるし財政もどんどん逼迫する)のだから、その矛盾を個々人の良心なり正義感なりで受け止め、なんとなく残っている昔からの名残(生産的じゃない仕組み)を1つ1つ小さなところから見直していく。現場の末端の人間にできることはそういう塵も積もれば的な積み重ねに尽きる。

まぁそうはいっても(自分で言ってしまった)、言うは易しであり、実際には正論は横に置いといて組織の力学に逆らわず生きた方が楽だ。でも忘れてはいけないのは、正論をそのままいうと煙たがれることが多いこの国で、地位もお金もある、しかも外国出身の方があえてこういう記事を書いてくれていることだ。問題があって、それをどう指摘するかは色んなアプローチがあるけれど、問題をストレートに簡潔に指摘しつつも、日本の「伸びしろ」、日本人の「潜在力」などという言葉回しで、とてもポジティブな視点で物事を語るスタンスに僕はなんだか深いところの優しさを感じる。優しさという言葉ではその深さをうまく表現できていないような気がするが、なんだかそういう、相手をさりげなく立てるところも忘れない日本人的な美徳に対してしっかりと答えられるのもまた、日本人が持つ美徳であるような気もする。ときれいに締めたつもりだが、言葉できれいに締めるよりも(きれいではない?)、大事なのは日々の行動...(自戒)

ジャンパーに関するもやもや

とある自治体の、ジャンパーの報道について。

色々な見方があり得ると思うのだけど、あえて誤解を恐れない言い方をすれば、僕は、あぁ、こういうことが日本の役所の至る所で起きているんだろうなと思った。

生活保護担当という役所の中でも困難な仕事を担当する職場で、
・極端なトラブルがあり(職員がナイフで切り付けられ)、
・そこに極端なデザインをすることで事態に対応しようとした職員がいた。

これらが組み合わさってしまったことは確かにレアで、事態は結果として極端な事例となった。しかし、事態を放置しここまで大きく報道されるまでのことにしてしまった要素は、全国どこの役所のどこの職場にもあると感じたのだ。

このデザインはやばい。そう少なくない職員が思っていたのは間違いないと僕は思っている。いくら地方公務員の英語力がそう高くはないと言っても辞書をひく力がない職員はまずいないし、デザイン的にいっても一般的な感覚からはかなりずれている。つまり問題は、これやばいなと職員が思いつつも、ジャンパーの使用をやめるという意思決定を組織として行うところまでいけなかったことにあると考えている。

どんな組織でも誤りは必ずあるのだから、たまたま極端なデザインを主導してしまった職員がいて、それがジャンパーとして形になってしまったことは百歩譲って仕方のないことにする。でも重要なのはその後で、問題がこういう形で明らかになるまで、問題を自浄作用する力が組織になかったことが僕は一番怖い。

あれ、これってよく見てみるとかなり問題のあるものじゃないか?でも何年も前にできて長年続いているものだし、周りの職員も何も言わないし、じゃあ自分も何も言わないでおこう。

たぶんまともな判断ができる上司にさえデザインの問題性さえ届いていれば、ここまで事態が放置されることはなかったはずだ。でも、そうはならなかった。

職場で感じた仕事への違和感を周りに表現して波風立てるよりかは、その違和感をなかったことにして自分の中だけで留めておいて平穏無事に組織の中でやりくりすることに努める。時代遅れの非効率的な業務フローであったり、必要のない前例踏襲の会議・説明会であったり、なんでもいい。おかしいと思うけど周りも何も言わないから自分も言わない、言ったら周りに面倒がられたり自分が何か責任持たなければいけなくなるかもしれないから言わない。今回はたまたま条件が重なってしまってこれだけ大きく報道されるレベルのことになってしまっただけで、分野は違えど、レベルは大小あれど、同じような事例は役所には多く転がっている気がしてならない。
つまり今回のことから学ぶべきは、目の前で波風立てないように放置してきた問題意識は、いずれ目の前どころかもっと大きなレベルでの問題となって帰ってくるということだと思う。国の財政破綻なんてものも結局は目の前の問題の先送りの積み重ねで起きるものだろうし、その意味で今回学べる教訓は別に役所のことだけに限らず、広く示唆に富む話であるようにも思う。

最初誰もが感じるであろう「これおかしいんじゃないかな?」という役所のあり方への素朴な疑問をなかったことにしてそのまま長年過ごし続けていると、どこかで何かが頭打ちになる

http://d.hatena.ne.jp/scoolforsaitama/20140224/p1


ブログを書くことにメリットデメリットあると思うけど、過去の記事を読み返すことで当時感じた問題意識を思い出せるのは本当に大きなメリットだなと思う。過去のエントリーを読んで、視点や思考や文章の拙さに恥ずかしくなることこの上ないことも多いけど、ただそれでも、当時強烈に感じた問題意識を今同じようには感じられない自分には、なんだかその点だけはうらやましい。

今はただ、自分がくだらないと思う作業を、同じ仕事をいつか担当する後任に二度とさせないよう、業務をシンプルでわかりやすいフローにして引き継ぐことを考え(ルーティンだからね...)、日々持ち場で粛々とやるのみ、でありますが。
http://d.hatena.ne.jp/scoolforsaitama/20161019/p1

視野や人脈

公務員に、広い視野や人脈はそもそも要るのだろうか?という話。

僕は入庁したての頃からしばらくの間、自分の業界以外の人と話したり、そういう人が集まる勉強会に参加したりすることが、今の仕事(担当の仕事という意味でなく今の職業という意味)をするにあたって絶対的に正しいと思っていた。視野が狭いことは悪だと思っていたし、知識の幅があってネットワークが広いことはとても仕事に役立つ、役立たなければいけないものだと思っていた。

でも、実はそうじゃなかったんじゃないか?この業界にある程度の期間身を置いて、よく思う。

勉強会や交流会に出たり、勉強会を主催して、いろんな人の話を聞いたのは楽しかったし今の自分の知識だったり視野だったり思考の柔軟性を支えてくれているとは確信している。それは、自分のアイデンティティのようなものの核であって、個としての自分への自信であったりもする。ただ、それは、自分のいる組織で成果を出す上で今まで役に立ったどころか、そうではないケースが多いように思うのだ。

例えば、「議論」は個々同士で異なる見解だったりをぶつける作業だと思うけど、とてもドメスティックで人の入れ替わりも非常に少ないこの業界で、仕事をする上で議論を要する仕事はとても少ないように思う。前回のエントリーにも関連するけど、議論が少ないからこそ、様々な考えや価値観を調整する機会が少なくて済むからこそ、仕事はスムーズに、効率的に回る面がある。言い換えれば、堅実に条例や規則にもとづいて回る組織で、自分はこう思うああ思うとやたら自己主張する人間は、時に業務の効率性を阻害する可能性がある。下手に余計な仕事に手をつけたり、トップダウンの仕組みに下手に逆らったり、会議やミーティングをむやみに開き意思決定に下手に時間をかけるのは、時に組織としての業務効率を阻害する。

これは「公僕」として働く自分たちの仕事の本質に関わる話のような気がしていて、「役人は決まったことをやることはできるけど」なんて揶揄する声はよくあると思うのだけど、何かを決めるのは市民であり県民であって、その代弁者が政治家であって、それを遂行するのが役人なのだから、そもそも当たり前の話といえば当たり前の話だ。結構前に、地方自治法を少し自分で勉強しようとしたことがあって、テキストを読み込めば読み込むほど、それがいかに「行政が勝手に何かをするのを抑止する仕組み」であるかがわかって、あまりにつまらなくなってやめてしまったことを思い出す笑。いや公権力の歴史とかを考えれば当たり前の話なのだけど。
何かを自分でつくりあげていくことは人生の1つのダイナミズムで、気概のある役人で自分で政策形成をする仕事に携わりたいという人は多い。けれど、程度の大小はあれど役人の仕事の本質はいわゆる調整で、上に行くのも調整がうまい人が上に行く。公務員を退職する人に多いのは、例えば車を運転するとして、誰かにハンドルを握らせるよりかは自分がハンドルを握りたいという人間だ。

「調整」は色んな意見なりを1つにまとめていく過程だから、議論なんていらないじゃんという論調となんだか自己矛盾しているような気もするのだが、これが自分が前から感じている行政の組織としてちぐはくなところと関連しているような気がする。政治という意思決定のもとに動く行政という機関も1つの独立した組織であることは事実で、組織の中の仕事は組織の上層部が決めたことに基づいて動く。そもそも自分たちで何かを決めることが求められていない、その必要がない組織の中で育った人間が、それでも1つの組織である以上何かしらのリーダーシップが求められる場面がある。なんか無理がある気がしないだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/scoolforsaitama/20140224/p1

行政の仕事として世の中に広く関わる何かについて、何かしらの決定を下す上で広い視野は大切だし、組織の内外問わず広い人脈があれば何か事業を進めていく上で役に立つ。ただそれを求められるのは組織として何かを決めることが求められない中で何十年か過ごした後の話であり、少なくともその何十年の間は、広い視野や人脈は不要どころか余計なものなので、そこに価値を見出して磨ける人は少ない気がするのだ。

民間企業などの経験がある人の採用枠については広がる傾向があったり、異なる経験、考えを持つ人を役所の中に受け入れようという動きが続き、広がっているのは間違いない。ただそこには上に書いたような矛盾も同時に存在するのも間違いないと自分は思う。その矛盾を認識し、そこにある意味で抗おうという取り組みや考えは、とても尊いものだと思う。

最後に、協力隊出身者を採用する枠を佐賀県庁につくった立役者へのインタビューを御紹介したい。上に書いたことと、話がうまくつながっていると嬉しい、があまり自信はない...
https://www.jica.go.jp/kyushu/story/ku57pq00000f9ww5.html

(上の記事からの引用)
県庁の仕事は最後の砦の様なもので、前に言った事と今言っている事が違う事をとても嫌う世界なんです。
ですから法律とか条例とかをしっかり理解して脇を固め、ある意味守りに入る仕事の仕方が大事なのですが、青年海外協力隊経験者は前に突っ込んでいくところがあり、まだまだ、脇を固めるといった面では弱いと思います。
けれど、良い面がその弱い面も凌駕しているので、この先、もっと頑張って欲しいと期待してます。
私は人事担当者に「青年海外協力隊経験者の最初の配属先は国際関連の分野には配属しないように」と指示したんです。
それはまず、県庁マン・県庁ウーマンとして地道なしっかりとした仕事を身に着けてもらい、それから今までの経験を活かせる分野で活躍して欲しいと思ったからです。

何気に合理的

http://anond.hatelabo.jp/20161022131254
少し前に読んだ匿名の記事で、残業規制をすると企業は、働き方はどうなるかについて記した文章なのだけど、読んでとてもはっとさせられるところがあった。これって正にうちの業界のことなんじゃないかと。

残業規制をしているとか、規制の結果どうなったというところでなく、定時退社にした結果起きた現象、すなわち

1.「余計な仕事」をしなくなる、命令できなくなる
2.ボトムアップからトップダウンになる
3.会議・ミーティングが減る

の3つが、まさに自分の知っている公務員の働き方そのものではないか、と思ったのだ。つまり行政の世界は余計な仕事をしないし、トップダウンだし、会議・ミーティングが少ない。

この話、どういう視点で見るかでプラスの見方、マイナスの見方、色々あり得るのだと思うのだけど、今の自分はプラスの見方をしている。

以前の僕の考え方であれば、たぶんマイナスの仕方をしていたと思う。トップダウンだけでなくボトムアップの考えも許容してこそ仕事の質は上がるものと思っていたし、会議・ミーティングで意見を交わすことで縦割りでない、より視野の広い、より生産性の高い仕事が実現するものだと思っていた。現実がそうでないことに、少なくない憤りや問題意識も感じていた。

でも、引用させていただいた記事も言うとおり、ボトムアップの意見を許容するスタイルは時に効率性を阻害する要因になり、会議・ミーティングが少なければ少ないほど組織全体の効率性は概して上がる。上意下達が行き過ぎていて、現場レベルだからこそ出てくる自由な発想が施策に反映されていないのではとか、縦割り行政を超え部局をまたいだ情報交換の場はおろか、部局内ですら十分な情報共有がなされていないとか、以前自分が持っていたそんな問題意識は、効率性の観点からいうと間違っていて、むしろ既存のあり方はすごく効率性に優れた、望ましいものなのではないかと。

記事も最後に言っているとおり、このスタイルが勤労意欲を減退させるのも間違いない。行政の世界にモチベーションに乏しい仕事が多いのも確かだ。でもそれを仕事の効率性と比較衡量した結果、優先させるべきは効率性だった、というだけなのかと。

例えば上の立場になればなるほど会議は多くなってくる印象もあるし、果たしてその会議が効率的に運用されているかというと自分の立場からはわからない。それに、これは一概に結論が出るシンプルな話でもないのだけど、それでも世の中何気に合理的なんじゃないかという話。

人材育成の話

僕が思うに、役所の問題の多くが解決しないのは、課題が複雑怪奇だからなのでは決してなく、単に我々が「自分で考える事を放棄している」事に起因する気がするから。

http://d.hatena.ne.jp/scoolforsaitama/20140224/p1
以前このブログに書いたことなのだが、いまだに行政についての自分の問題意識の根底にある考え方であることに変わりはなく、このブログを、これ続ける意味なんなのだろうと幾度となく思いつつも、いまだに続けている原動力ともなっていることなんだと思う。

以前書いたエントリーでも言及しているけれど、組織の人材育成のあり方として、若いうちに自分で考える仕事のやり方を身につけないとそのあとはもうずるずるいくしかない。自治体として、その言葉のとおり自治をするにはそれだけの能力をもった職員が必要で、それこそ機関委任事務という言葉があった時代とは異なる人材育成のあり方が必要になるはずで。例えば東京都なんかは、他の自治体と比べてかなり早い段階で昇進する職員とそうでない職員を試験なりで振り分けることで有名だ。東京都をいろんな意味で特別だと別枠にする考え方もあるだろうけど、政策を自分の頭で考えつくっていく人と、つくられた仕組みを運用する人の育成を別にして考え、前者についてはそういう人事配置で対応するみたいな考え方は、自治をしていく上でとても大切な考え方の1つのように思う。若いうちはこういうポジション、こういう仕事、という昔からの慣例を変えなければ、組織としての自立度もまた変わらない。当たり前のようでいて、あまり共有されていないことであるように思う。

ただ、権限委譲と人材育成はかならずセットで語られることが多いと思うが、だからこそ時間がかかることだ。今自分がいる組織も、変わらないことも多いようで、実際変わっていることもあるように思う。例えば、民間企業との人事交流というのがあって、昔はある程度の期間、中でキャリアを積んだ人が派遣されるイメージだったけど、最近は3年くらい中で仕事した人が早々に派遣に行ってしまうイメージがある。暦年のデータで裏をとっているわけではないけれど、仮にそのとおりだとすると、優秀な人を若いうちからどんどん経験を積ませるという視点が普通になってきているということで、とても望ましいことだと思う。若いうちからチャンスを与えるという傾向があるのは、最近の人事課の制度設計のあり方を見ていると自分が思う限り間違いなくて、おそらく意思決定ができるレベルの人にそういう思考の職員がいらっしゃるんだと思う。とても素晴らしいことだと思う。

自分が最初に配属されたところはザ・下積みという感じの仕事内容だった。電話対応、窓口対応からはじまり、庶務全般を浅く広くやるイメージ。もちろん、行政としてのお金の支出の基礎が覚えられたこととか、幅広く仕事が経験できたこととか、業者さんと接する機会が多いこととか(例えば今の課だと外の世界との接点がほとんどない)、感謝している面も多い。けれど、大きい視点で職員の育成を考えたときに、自分がいたような部署に数年単位で新人を置くのが正しい人事配置かというと、確信が持てない。それに自分が幅広く仕事をさせてもらえたのも有能で理解のある先輩が常にいてくれその配慮があったからで、そうでないケースだって多い。つまり、例えば一緒に働く先輩なりがこの担当業務しかやらない(できない)と言い張る人だったら、担当業務の振り分け上、特定の仕事以外が経験できず、せっかく幅広い仕事に触れられるチャンスがあるのにそれを逸してしまうという事態も生じうるし、実際に少なくない数、起こっていることだ。

最初の職場で財務の基礎とかが学べたのは今でもよかったなと思う。今の課も、その前の職場も、外の世界との接点が限りなく少ない仕事なので、業者さんとやりとりをして仕事をする機会も、純粋に楽しかったし、それに役人視点を少しでも柔軟にする意味でよかったなと思い、感謝している。
そう、最初からやる仕事を絞ってしまって、例えば現場の世界を知らないとか、自分のいる世界のことしか知らない人材が上に行って意思決定をする、政策をつくるあり方が果たして全能かというとそうでもない。すごく頭のいい人で、知識がある人でも、自分と同じような人とだけ付き合っていて、世界観がすごく狭い人が政策をつくる立場にいるとすると、自分だったら、頼むから学者なり研究者になってくれ、自分で政策はつくるのはやめてくれと心から思うだろう。アメリカの大統領選挙結果が、それを予期できなかったエリート層の裸の王様ぶりを明らかにしたと言われるのと同じ理屈で、現場レベルや自分と違う世界に生きる人たちのことをよく知らない人に、よい政策はつくれない。社会の幅広い層のことを知っていて、はじめてよい政策が練れる。そう思う。

要は、人材育成もバランスが大事だと思うというお話。

後任になりたい人

前のエントリーで私はルーティンの仕事ばかりやっていると書いたが、実感として、というか一般的な見解としても、公務員の仕事はルーティンが多い。民間でがっつり仕事をしている友人とかと話していると、あれ、自分の仕事って人一人割いてやる必要あるんかな、これマニュアル化して効率化して自動化すれば、少なくともプロパーの職員1人とかいらないんじゃないかな、と恥ずかしくなったことは一度や二度ではない。

・仕事がルーティンで
・職員の異動が数年ごとにある
環境があると起こる現象のもう1つが、「前任と全く同じように仕事をすれば仕事がこなせる」現象だ。これは公務員に限ったことではないと思うけれど、いわゆるエクセルのマクロの仕組みを理解しておらずとも、前任がやったのと全く同じようにやれば仕事はこなせる、という現象。

ルーティンの職場で頻繁に耳にするセリフが、公務員あるあるだと思うが、「なんか去年と変わったことある?」である。つまり去年とやり方なりなんなり、変わったことがなければまず安心であるという理屈であり、もちろんこれはリスク管理としてすごく正しい。前任と同じように仕事をすれば仕事が回ること自体も、業務の形が整理されているということであり素晴らしいことだ。しかし問題となるのは、「前の人と同じようにやれば安心信仰」がいきすぎて、前の人がどういう考えでそれをやったのかを自分の頭で考えなくなる現象が結構頻発に発生することである。私の経験上、行政の組織は、そんな現象があちこちに巣くう伏魔殿である。

キャリアの浅い私のような人間が偉そうに定義して恐縮だが、私が知っているこの業界の中で、仕事ができる人とは「その人の後任になりたい人」と今は定義することにしている。前回のエントリーと連なるところがあるが、その場限りで要領よく乗り切る人、力技で乗り切って後任にも同じことを強要する人(というか強要していることを意識していない人)、の後任になると大変で、担当がその年ごとに新しい要素がほぼ全くない仕事で仮にあったとしても、一から勉強し、一から試行錯誤し、そのために時間と労力を多く使うことになる。一方で、前任の仕事を丁寧に受け継ぎつつも自分の頭で考えて仕事をした人の仕事の形跡は、見ていてわかりやすいし、スムーズに引き継げるし、その仕事の形跡は優しく、そして美しくすらある。

私は、恥ずかしながら、「組織としてどうあるべき」志向が極端に高い人間なので、自分の頭で考えた形跡がなく、前任と同じようにやるのが絶対的に正しい信仰に則ってやった仕事を見ると、正直ため息がとまらなくなり、モチベーションを著しく失い、効率も落ちる。組織としてセンスのない現象を見ても自分一人の力ではどうしようもなく、どうしようもないだけならいいが一人で勝手にモチベーションと効率を落とす自分にいまだに辟易とするけれど、いまだにこれは治らない。

業務上何か大きな変化がなければ、前年と同じようにやっていれば仕事はこなせることが多いが、業務の本質的なところを理解しないまま仕事を進めてしまうと、当然仕事に無駄が多くなる。いらない工程が入っていてもそれが不要という判断はできないし、いらない資料を毎年作っていたとしてもそれが不要という判断はできない。去年あったものをなくすということは、行政の世界では大変な勇気と度胸を必要とするというのには心から共感するけれど、資料1つにしてもそうなりがちなのは、この現象が背景にある。

これ、どうすればいいか?私が思いつく限り2つで、

・こういう業界にあっても長年自らの志を絶やさず持ち、かつ要領よく出世もでき決定権を持つ立場まで行ける、狂気的なまでに利他的でかつスマート要領よしという、スーパー行政職員の登場を期待する
http://d.hatena.ne.jp/scoolforsaitama/20141212/p1
↑なんかだらだら書いているけど、意味としては上と同じことを言っている。

・民主主義の原点に立ち返る
http://d.hatena.ne.jp/scoolforsaitama/20121119/1353333496
↑これもだらだらわかりにくいけれど、詰まるところ行政組織に自浄作用を期待してはいけない、ということ。個人が悪い、上司が悪い、組織が悪い、ではなく、行政が「自発的に」自らを本質的に改革する現象を期待するのは「その仕組み上」無理がある、ということ。むしろ有権者から組織を変えられる構造である、そういう「仕組み」になっているのだから、そっちをまず考えよう、ということ。

...状況は、なにか絶望的といえば絶望的かもだけど笑、持ち場でやることをやるだけ。